2018年1月24日水曜日

松代城





場所 長野県長野市松代町松代44

築城年数 1560年

築城者 武田信玄

大河ドラマ『真田丸』放映の真っ只中に訪問しましたが、上田城が人で溢れていたのにたいして、松代城は静かなものでした。城の隣には池田満寿夫美術館があります。

元々は海津城と呼ばれていて、貝津城、芽津城(かやつじょう)、長野城の別名を持つ。正確な築城年数は不明。『甲陽軍艦』によれば武田氏は北信国衆である清野氏の館を接収し、山本勘助に命じて築城されたという。

有名な戦い第4次川中島の戦いでは、逃げ弾正の異名をもつ春日虎綱(高坂正信)が城代として篭城しています。

武田家滅亡後の天正10年(1582年)3月には、信濃川中島四郡を支配した織田氏家臣・森長可(もりながちか)の居城となりますが、同年6月に本能寺の変が起こると信濃を放棄し、美濃へと退却したため空白地帯となり、越後の上杉氏の支配地となります。

慶長5年(1600年)には、森長可の弟・森忠政が13万7500石で入封。この時に海津城から待代城(まつしろ)へと改名したといいます。忠政は順調に出世し、慶長8年(1603年)には、森忠政は18万6500石へ加増され美作(みまさか)一国(現在の岡山県東北部)に転封しました。

兄は、3ヶ月で逃げ帰りますが、弟は3年支配して栄転となるのです。

その後、松平忠輝(徳川家康の五男)、松平忠昌(徳川家康の次男・秀康の次男坊)、酒井忠勝の支配を経て、真田信之(真田昌幸の長男・信繁の兄ちゃん)が13万石で入封し、明治維新まで真田氏の居城となります。

ちなみに、待代から松代へ改名されたのは松平忠昌の時です。


訪問時に松代城に隣接する日暮庵で食事しました。こちらは、日暮硯で有名な松代藩家老恩田民親の弟の屋敷跡だったそうです。日暮硯とは、藩政改革の事績を筆録した書です。

日暮庵

とろろとお蕎麦のセット 味噌豆が美味しい!



写真館















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訪問日 2017.07.02

2018年1月20日土曜日

福島正則館





場所 長野県高井郡高山村高井八幡添

築城年数 江戸時代前期

築城者 福島正則

豊臣秀吉子飼いの武将であり、賤ヶ岳の七本槍の一人として活躍、関が原の戦いの後、広島藩(安芸・備中)49万8千石の藩主となった福島正則が晩年暮らした館跡です。

屋敷は東西103m、南北70mの方形単郭の平城で、四方に高土塁を築き、その外に空堀を廻らせてあったといいます。遺構としては、東北隅に高さ5mの土塁跡が残るのみで、石垣は後年、別人によって改修されたもです。

広島藩の太守にまでなった福島正則の晩年は寂しいもので、徳川家康の死後まもなく元和5年(1619年)に、台風による水害で破壊された広島城の本丸・二の丸・三の丸・石垣を無断修繕したことが武家所法度違反に問われ安芸、備中の領地を没収され信濃川中島四郡中の高井郡2万石と越後魚沼郡2万5千石の4万5千石に減転封を受けることとなります。(実際は、広島城の改修願いは幕府に提出されていた。)

移封後、正則は高井郡に居住地を定め、嫡男・忠勝に家督を譲り隠居しますが、元和6年(1620年)に忠勝は早世してしまった為、越後魚沼郡2万5千石を幕府に返上します。

そして、寛永元年(1624年)この地で64年の生涯を閉じるわけですが、幕府の検死役が到着する前に、家臣の津田四郎兵衛が正則の遺体を火葬したために高井郡2万石の領地も没収され福島家は取り潰されてしまうのです。

正則の在館年数はわずか5年でしたが、領内の検地を行い、治水、新田開発にと民政に尽くし功績を残しました。

館跡のすぐ近くに正則を火葬したという場所があります。案内板も出ていますのでわかり易いと思われますので、館跡と共に...


 写真館

館跡に残された土塁跡

屋敷跡に建てられた高井山高井寺

福島正成荼毘の地 案内板

正則荼毘の地

福島正則荼毘の地

福島正則荼毘の地

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訪問日 2017.07.02

2018年1月18日木曜日

村松殿館





場所 長野県小県郡青木村村松

築城年数 不明

築城者 小山田氏

村松殿は、大河ドラマ『真田丸』にて、木村佳乃が演じた真田昌幸の長女で母は山手殿。名を於国といい、信之、信繁の姉にあたる人物です。

夫の小山田壱岐守茂誠(おやまだ いちきのかみ しげのぶ)は、武田信玄の家臣であった小山田有誠の子(真田氏と青木村では備中守昌辰の子となっている。)で、武田家滅亡後は真田昌幸の長女である於国を迎え、これが縁となり真田信之の家老となり、天正18年(1590年)に昌幸より村松郷(現在の青木村)の地を与えられ、村松の地に住んでいたことから於国は村松殿と呼ばれた。

信州青木村 真田氏と青木村参照
          ウイキペディア参照


村松郷(現在の青木村)は義民の地でもあります。江戸時代には一揆が5回も起こり全て成功。『夕立と百姓一揆は青木』からといわれるほど珍しい場所で、己の死は覚悟の上で領民を守るため藩主に直訴し処刑された先人は義民として祭られ供養されてきたといいます。

そして、青木村の村民が太鼓を必ずと言っていいほど手にすると聞きます。学校の授業でもあると言っていたような?その中で青木村をアピールするため活動している青木村義民太鼓保存会

と、タチアカネという青木村オリジナル品種のお蕎麦。

真田丸が放映している真っ最中に青木村訪問しましたが、皆様、上田市止まりなのか?比較的楽に観光できましたので、今なら尚更観光しやすいでしょう。温泉も良し!観光も見事なお寺もありますので、お休みの日に観光してみたらどうでしょう?

上田市から車で20分くらいです。



写真館
県宝指定県宝筐院塔

宝筐院塔の真上が館跡になります。

説明版

真田信繁が村松殿に宛てた手紙

青木村義民太鼓保存会

義民そば(タチアカネ蕎麦)

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訪問日 2016.8.14

2018年1月16日火曜日

野木城





場所 栃木県下都賀郡野木町野木

築城年数 不明

築城者 不明


野木宮城という別名を持っている謎の城、野木城です。

グーグルナビでも野木城跡で案内してくれるので簡単にいけると思います。車であれば、『はくうんの木公園』に『水辺の学校駐車場』がありますので、そちらを利用させてもらうとよいでしょう。

そして、野木城の案内版は城跡ではなく『はくうんの木公園』にありますので見逃さないように!


案内板によると、調査の結果、中島・馬場西・馬場費東・堀切の古地名を確認できることから中世城館跡の存在を推定するのにとるに足るそうですが、耕地の開発による地形改変が著しく、現在では中世城館跡としての明確な遺構が認めることができない。とあり、文献にも野木城主を野木氏とするものがあるが、この地を直接示した訳ではない。さらには、『日光道中記』に清六山(※見取図参照)に古城跡がみとめられ、『小山の臣』が存在したことが伝えられるが、野木城を示している証拠がなく、清六山にあった全く別の城を示している可能性そうで、存在そのもが謎であり、実際に城跡なのでろうか?

私的にみても、立地がとても魅力的で築城したくなるので古地名が示す通り中世城館跡であると思うが、明確な証拠が欲しいところです。



写真館


見取図

水辺の学校案内板
この奥、野木城跡看板

主各部か?

稲荷谷入り口

はくうんの木公園

公園にある野木城説明版

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訪問日 2018.01.16

2018年1月15日月曜日

大舘館




場所 群馬県太田市大館1474

築城年数 ?

築城者 ?


大舘(おおたち)の名が歴史に登場するのは、仁安3年(1168年)新田義重の子、らいおうごせん(徳川義季)とその母に所領を譲り渡す約束をした新田義重置文に記されているという。しかし実際には、らいおうごせんとその母には譲渡されておらず、新田宗家に伝えられたと考えら、義重の子孫である家氏がこの地に住み大舘氏の祖になったという。

太平記によれば、新田義重による生品神社の挙兵に際し、義重に従軍一族筆頭は大舘宗氏(家氏の子)と、その子幸氏、氏明であったという。宗氏は鎌倉攻めで戦死、氏明は新田義貞亡き後も脇屋義助(新田義貞の弟)と共に四国の地で活躍するが戦死している。

遺構は耕地整理により皆無、畑の中にポツリと小さな神社があるのみです。案内板によると、ここは古くから窯跡だったと伝わっているらしく、この場所を中心に御堀、鍛冶屋、馬場、御蔵という地名が往時を偲ばせるといいます。



大舘館から徒歩5分ほどの地に東楊寺があります。東楊寺には、津軽藩代官足立氏の墓があります。津軽藩が関が原の戦いの戦功で得た飛地2千石が上州八か村にあり、その中心にある大館村に陣屋が置かれ代官として足立氏が管制していたためです。

一説には、石田三成の娘といわれる大舘御前といわれた辰姫も東楊寺に眠り、大舘の地で生まれた信義は津軽三代藩主となっています。

尾島のねぷた祭が開催されるのも、このような歴史の繋がりがあるからです。


写真館


大舘館を遠景から撮影


東楊寺

東楊寺の説明版

足立氏と辰姫の墓


尾島ねぷたまつり

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訪問日 2017.06.16




2018年1月13日土曜日

犬飼城




場所 栃木県宇都宮市上欠町

築城年数 康暦元年(1379)

築城者 小山義政?

犬飼城は別名根古谷城という。

位置的にはうつのみや遺跡の広場の南側に位置しますので、ナビはうつのみや遺跡広場で近くまでいけます。自分は川沿いの空き地に駐車して城攻めをしました。

築城者についてですが、明治時代に書かれた『姿川村誌』によると、康暦(こうりゃく)元年(1379年)に小山義政によって祇園城の支城として築城され、1570年~1573年の間に北条氏政に攻められ敗北、その後、元亀(げんき)4年(1573年)に犬飼康吉が城主となりますが、宇都宮勢に攻められ廃城となったと伝えられているそうです。

しかし、時代的、立地的に小山義政が支城を築くのは難しいのではないか?という疑問があり、幾つかの本を読んで見ると小山義政築城説に異を唱える本がもあり、共感したので築城者は?としました。

その本によると小山氏の支城というより、宇都宮氏の軍事的な城ではないかと言ってます。

遺構についても、曲輪・土塁・横堀・井戸跡など良好に残っています。

平成28年2月15日~2月21日の期間に『姿川の中世 三つの城より~横田城・犬飼城・樋口城』という企画展がありましたので、以前よりかなり見学しやすくなっているはずです。

写真館


鳥瞰図

遺跡むら資料館にある模型

航空写真

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見学日 2018.01.04

2018年1月11日木曜日

足利政氏館





場所 埼玉県久喜市本町7丁目2-18

築城年数 永正15年(1518年)

築城者 足利政氏

埼玉県久喜市にある甘棠院が足利政氏館で、政氏の墓や古河公方の貴重な資料が納められているそうです。居館として機能していた時期は短い様子。

別名に久喜の館というらしいが久喜の館がほ本来の名称なのかもしれない。

さらっと歴史を...
二代古河公方足利政氏は、永正3年(1506年)に古河公方内の権力争いにより、嫡男・高基と対立してしまいます。一時和解しますが永正7年(1510年)には、梁田氏、宇都宮氏に支持された高基と対立し敗れてしまいます。政氏は次男・義明とも対立しており、義明は下総国小弓城(現在の千葉県千葉市)を居所とし、小弓公方として独立すると古河公方の正当な後継者を主張し、兄高基と対立しています。

争いの末、政氏は古河城を明け渡し、下野国祇園城主小山氏を頼り落ち延びると高基と不利な形で和議を結び公方の位を譲ることになります。小山氏の庇護も受けられなくなると、岩槻城などを転々とした後、武蔵国久喜の館に移り隠居しました。

永正16年(1519年)に政氏が開いた寺院が甘棠院です。永正17年(1520年)には古河城を訪れ高基と対面、和解しています。享禄4年(1531年)に久喜の地で没した。

写真館

石碑と甘棠院の解説版

二つ引き家紋

山門です。

山門前の堀は見事!

堀を散歩したくなります...

中雀門と足利政氏館解説版

本堂


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訪問日 2017.12.30