2013年1月22日火曜日

後閑城





松井田城攻めの後に、ついでに攻めちゃう?見たいな感じで行ってみたのですが、この城跡が素晴らしいことと言ったらありません。城跡公園になってますが、整備も行き届いていて言うことなしです。メインで攻めても良かった城です。

後閑城について
 1441年(嘉吉1)に、信濃国の御嶽城の城主、依田忠政が築城を開始し、1447年(文安4)に完成したとされている。
  1560年(永禄3)、越後の長尾景虎(上杉謙信)は、関東管領上杉憲政を擁して第1回目の関東出陣を行う。その際、西上野の多くの武将は景虎方についた が、城主の新田信純は小幡城の小幡信実とともに武田方に与したため、城を失った。しかし、1566年(永禄9)に武田信玄が長野氏の箕輪城を攻略して西上 野を制圧し、翌1567年(永禄10)、信玄は新田真純を後閑城に入城させたことから、城主として復帰した。
 1582年(天正10)に武田氏が滅亡すると、真純の長男の信重は厩橋城の北条高広に従い、次男重政と三男信久は北条氏に属して両後閑と呼ばれた。1584年(天正12)、高広が北条氏に降伏すると、北条氏直は新田兄弟(両後閑)に厩橋城在番を命じている。
 1590年(天正18)の小田原の役では、両後閑は小田原城に篭城し、後閑城は松井田城の大道寺駿河守政繁に属したが、北条氏の滅亡とともに、廃城となった。城跡には曲輪、土塁、堀切などが残っている。

『西第三郭』

車を駐車して、たどり着いたのが西第三郭で、広場となっています。別口からも、城攻めできます。



『南郭』



『二の丸』
後 閑城の二の丸は、本丸から20mの高低差があり、北から南東に『く』の字形に曲がりながら延びています。本丸と二ノ丸の間には、大堀切があり、それによっ て本丸とは完全に絶たれ、一城別郭という構造になっています。これにより、二の丸が落とされても本丸には累を及ばさない作りになっています。二の丸には、 櫓台もありました。
『東郭』  

『北堀切』と『北郭』
北堀切は、第一から第三まであります。 北廓にから見る浅間山と妙義山も美しいので天気の良い日に眺めてみると良いと思います。


『本丸』
本丸には、128基にも及ぶ庚申塔が建てられていて、『百庚申』と呼ばれています。
本丸からの景色も素晴らしい絶景です。





 いや、びっくりいたしました。後閑城侮りがたし・・・
春にもう一度、花見がてら行ってみたいですね。


★おまけ★
安中榛名駅近辺に『赤穂四十七義像』があるのご存知ですか!?何故に、群馬県で赤穂!
ってことで、行ってみましたが・・・もう、真っ暗で怖くて近づけませんでした。
本当に怖いんだもの・・・
赤穂四十七義像 ←詳しくは、クリック♪





★だいたいここら辺★
群馬県安中市




訪問日 2013.0119




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