2013年1月10日木曜日

宇都宮城




 関東の七名城の一つに数えられる宇都宮城に行ってきました。以前、群馬に住んでいた時に、仕事で宇都宮に来て、その際に一度立ち寄ったのですが、その時の印象が余りよろしくなかったので、宇都宮に住みながら後回しになっていましたが、城巡りを始めるにあたって再訪してまいりました。

宇都宮城の歴史を少々
 藤原秀郷が佐野唐沢山城の本城の他に、東国・陸奥地方を治めるための出城として、現在の本丸跡に居館を築いたといたのが始まりといわれる。本格的な城郭は、後の宇都宮氏初代の藤原宗円が築いたもので、以来、22代の国綱まで550年もの間を宇都宮氏が支配することになる。

※宇都宮城と言えば、『釣天井事件』が有名ですが、実は後の作り話です。

※現在復元されている部分は、模型の赤線の部分です。

 『おほり橋』を渡った土塁下には、左右に『宇都宮城ものしり館』と『まちあるき情報館』があります。『まちあるき情報館』には、宇都宮近隣の観光パンフが置いてります。『宇都宮城ものしり館』には、宇都宮城に関する資料が展示されています。ボランティアの方が、宇都宮城の歴についてお話ししてくださいます。





 宇都宮城ものしり館』の先にあるエレベーターに乗って土塁上に上がります。漆喰で出来た塀と城復元の為に焼かれた瓦が現れます。そこには、『富士見櫓』と『清明台』が復元されていますが、実際には、5基の櫓があったそうです。

『清明台』 
 宇都宮城本丸の土塁北西部にあった櫓で、江戸時代の絵図には2階建ての瓦葺で書かれていて、広さ3間(5.9メートル)×3間半(6.9メートル)と記録されています。清明台のあった部分は、他の土塁よりも高く、本丸の役割を果たしていたと言われています。



 『富士見櫓』
 宇都宮城土塁の南西部にあった櫓で、江戸時代の絵図には2階建ての瓦葺で書かれていて、広さ3間(5.9メートル)×4間(7.9メートル)と記録されている。名前の通り、周りに高い建物がなかった江戸時代、遠く富士山の姿が望めたそうです。


『清明館』
 伝統芸能や文化を紹介する場所。有料で茶道・華道などの部屋アリました。








★おまけ★ 
『つぎは宇都宮城を攻めればいい』
 と、歳三は大鳥の迷いを見抜いているかのように断定した。
『宇都宮城?』
 ばかな、という顔を大鳥はした。名だたる名城である。西洋兵術でいえば要害攻撃になる。西洋で、要害攻撃といえば、日本人からみれば過大と思うほどの準備をしてかかるものだ。                                    
司馬遼太郎 『燃えよ剣』 より

 『 新選組土方歳三と幕末の宇都宮へタイムスリップ』というパンフレットもらいました。そうです、幕末の時代にも、宇都宮の地は重要な歴史舞台となっているのであります。宇都宮城跡観光の後に、戊辰戦争の爪痕を巡るのも良いかもかも♪。新選組(特に土方さん)ファンにもオススメです。歳さんが銃弾を受けて戦線離脱するのも宇都宮であります。











★だいたいここら辺★
栃木県宇都宮市
 

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訪問日 2013.01.10



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