2013年1月18日金曜日

大田原城



 栃木県大田原から黒羽に行く仕事あがありましたので、お昼休みを利用して訪問してまいりました。現在は龍城公園となっています。

大田原城について
那須七騎のひとつである大田原氏は。武蔵の国から移り住んだ大俵康清を祖とする。大田原城は、1545年(天文14年)大田原資清の時に築かれたと言われ、以来、1872年(明治4年)の廃藩置県まで大田原市の居城となった。城の規模は東西に200m、南北は327m、本丸、二の丸、三の丸に区画された他、馬場や味噌蔵作業場なども作られた。竜体山に築城された為、竜体城や前室城という別名もある。

江戸時代には、徳川家康は奥羽情勢から、この地を重要視した。また家光は常に玄米千石を城中に貯蔵させるなど、大田原城は奥州への鎮護となる重要な城であったようである。後の戊辰戦争では、会津攻めの軍事拠点となった。



『北城北郭跡』
北曲輪とも呼ばれ、複数の廓で構成されている。場内唯一の庭園があったり、非常時に備えて軍事訓練を行っていた場所である。


『坂下門跡』
本城内の本丸、二の丸、北の曲輪に通ずる門で、左手に番所があった。戊辰戦争時には、この門外で会津藩兵との攻防戦が行われた。


『千石倉跡』
城詰米庫とも呼ばれる。徳川幕府は、譜代並みの扱いの外様大名に命じて、幕府の米を詰めさせた。これらは、外様大名を睨んだ軍事的な重要拠点に配置された。


『二の丸跡』『しょう炎庫跡』
二の丸内にある土蔵作りの建物で、火薬や銃弾が貯蔵されていた。大田原藩の大砲は三貫目玉、六門と記録されている。


城の図を見ると三の丸があったであろう場所から、二の丸へ登っていく感じになると思われます。


『台門跡』『諸役所跡』『本丸』
雪の残っている画像が『台門跡』になります。この城唯一の石垣をよういた重層門で、太平洋戦争時には、監視所があったそうです。もう一つの画像が『諸役所跡』 です。本丸跡は、桜のシーズンになると花見客で賑わうのだそうです。




★おまけ★
龍城公園入口にあるたい焼き屋『城山』さん、お客が列を作くっていました。試しに並んでみましたら、皮はパリパリ、中はもっちり、餡はしつこくなく、とても美味しいたい焼きでした。生地がなくなり次第終了なので、タイミングがあったら食べてみてください。みんな10個単位で買っていきます。作るのが間に合わない状態です!1個110円なり♪オススメです!


 
 







★だいたいここら辺★
 栃木県大田原市


大きな地図で見る



訪問日 2013.01.18

0 件のコメント:

コメントを投稿