2013年1月5日土曜日

大宮城





 塩谷町に仕事で行ったのですが、少々時間を持て余してしまったので(と、言い訳をする。)なにか城跡はないかしらん?と、検索をかけてみる・・・、現時点から一番近い場所に『大宮城跡』なる城跡が存在することを知り、びゅびゅ~ん♪と車を走らせ行ってきました。

大宮城については、建て看板を抜粋させて頂く

 大宮城は中世の山城で、自然の独立丘陵をりようして築かれた城である。築城時期は、不明である。現在、城跡は本丸・二の丸・三の丸が残っておリ、土塁・空堀が角部を囲み、かなり堅固な構築がうかがえる。本丸は、東西約54メートル、南北45メートルの長方形で、二の丸は北西に突き出ている。

 『宇都宮興廃記』によると、1585年(天正13年)に大宮城を再建したとあることから、この時期に大規模な修築が行われ、現状の堅固なものになったと思われる。

 大宮城は、南北朝時代に千葉常胤の孫大須賀嗣胤の曾孫君島胤景が、宇都宮公綱(宇都宮9代城主)より宇都宮北部のまもりとして大宮村に封ぜられ、当地に築城したと言われている。胤景は、地名をとって『大宮兵部丞平胤景』と称して大宮氏の祖となった。 1351年(観応2年)上野の国那波荘(群馬県伊勢崎市)の合戦で討ち死にした。また、1380年(康暦2年)に、宇都宮基綱が小山義政と下野国裳原(宇都宮市茂原町)で合戦し討ち死にしたとき、その先手の軍勢に大宮兵部右衛門尉の名前が残っている。

1597年(慶長2年)宇都宮氏の改易にともなって廃城となった。

 大宮兵部丞平胤景さん(おおみや・ひょうぶのじょう・たいらの・たねかげ)平姓を名乗っているということは、大宮氏は平氏なのだろうか?それに面白いことに、私の出身地である群馬県伊勢崎市で討ち死になさっている。物凄いロマン(縁?)を感じる。


※大宮氏について分かりやすく
大宮氏は、千葉氏の末裔なので平氏でよろしいとのこと、千葉氏の分家が大須賀氏(下野国に来る)、大須賀氏の分家の君嶋氏、君嶋氏の分家が大宮氏になるのだそうです。


さて、城探索しますか!?
大宮中学校とお寺(興福寺)の間にから、てくてくと山を登り始める。すると、正面に本丸の建て看板を発見!





どこら辺が二の丸・三の丸なのか、今ひとつピーンときませんが、堀等が残っていて城跡来たね!とわくわくします。


お隣にある興福寺も大宮城の敷地内です。説明文にも書いてありましたけど、大規模な城であったことがわかります。大宮氏は、結構な勢力を持っていたのでしょうか?




★おまけ★
興福寺内にある石階段を昇ると、宇都宮戸田藩士のお墓がありました。なんだか、ちょっぴり感動したのであります。写真撮影は、もちろんしませんでしたけど・・・











★だいたいここら辺★ 
栃木県塩谷市


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訪問日2013.0105







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