2013年1月6日日曜日

小高城



初日の出を霞ヶ浦で見て、千葉県伊原に行く途中で立ち寄ったお城です。

 なぜに、こんなマイナーな城跡に立ち寄ったかと言えば、まっぷるの地図に載っていたからです。
地図に小高城跡と載っているけど、迷って迷って辿り着いた城跡で、建て看板を見つけた時は嬉しかったです。

小高城については立て看板を抜粋させていただきます。

 平安時代末期、常陸大掾氏の一族、吉田忠幹が軍事として行方のちに入り居城を築き、行方平四郎を名乗った。その子景幹(一説には、宗幹)は源平の戦いにおいて源氏に与し、屋島の戦いで没した。
 
 元歴元年(1148年)、その所領は影幹の四子に分与され、長子為幹は行方、二子高幹は島崎、三子家幹は麻生、四子幹政は玉造に進出した、彼等は、それぞれの地名を名字とする地頭として『行方四頭』とよばれた。

 鎌倉時代初期、行方城主為幹はここ小高の地に居城を移し、小高氏を名乗った。その後裔は開発や車両侵略などにより、次第にその勢力を拡大し、小高、南、橋門、井貝から、南高岡、中根、繁昌、吉川まで支配したこともある。

 戦国時代末期、1591年(天正19年)2月、幾多の乱世を生き延び400年にわたりこの地を支配し、十数代を数えた大高氏も、佐竹氏の『南方三十三館の仕置』により鹿島、行方地方の諸城館主とともに滅ぼされ、その終焉を迎えた。

 小高氏滅亡後、佐竹氏の一門が小高城将として配された。1602年(慶長7年)、大山義則が城将のとき、佐竹氏の秋田移封により廃城となった。

南方三十三方の仕置←ここをクリック♪


 城跡、ほぼ畑と化してますが、堀などもしっかり残されています。
この城跡、もう少し整備したら良い感じな史跡になるんじゃないでしょうか?畑としては、素晴らしく整備されているんですけどね。






★おまけ★
小高城跡を探して、迷っている時に見つけた観音様です。
名所という看板のままに行って見ると、どうも何処かの会社が勝手に名所にしちゃったのでは
ないかな~?と思われる場所でした。歴史を何も感じられないんで・・・












★だいたいここら辺★
茨城県行方市

 
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訪問日 2013.01.03



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