2013年2月15日金曜日

館山城



現在は採石場となってしまい、立ち入り禁止のため、城跡は遠方よりその跡形を眺めるしかありません。294号線沿い芦野宿の建物があるところに館山城について書かれた建て看板があります。

しかし、城攻め中によく雪降るなぁ・・・

館山城について
芦野氏代2の城館で、切り立つ岩山の丘陵地形を利用した要害で、前館、中館、後館に区分され、東側を流れる菖蒲川を天然の堀とした極めて強固な山城である。山頂や山腹には土塁や郭跡の遺構がわずかに残っている。

芦野地は奥州との堺に位置し、室町時代には北に白川結城氏、東に佐竹氏、南に宇都宮氏と対峙し、抗争を繰り返した。この城の築城は1304年~1428年と伝えられている。この時期は、個人戦法から集団戦法への変化に伴い、武士の居館が平城(芦野氏居舘)から山城へ移行し、戦略的な革命時期でもある。

その後、狭隘な地形と飲料水などの条件から、戦国時代の1550年頃に、東方にある御殿山(芦野城)を築城し、移転したと伝えられている。

江戸以降は、廃城となった館山城は、芦野石の石切場となり、その面影をしのばせている。

※説明版抜粋
















★建て看板はココだ!★
栃木県那須郡那須町大字芦野 字若林



★おまけ★
看板の脇には、芦野氏旧墳墓跡があります。芦野には、芦野氏の墓跡が2箇所がその一つです。
伝承によると、芦野氏の祖、余一宗高七世の孫、加賀守資忠の三男・資方より資泰に至る十八代の墓域と言われている。十九代目以降は、建中寺(本墓)にあるのに対して旧墳墓と言うのだそうです。



 古のロマンを感じた度 私を彼処へを連れてって・・・ 30点


訪問日 2013.02.15


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