2013年2月23日土曜日

喜連川陣屋



喜連川城は、3・11の震災の影響で山崩れ等、危険な状態にあるので立ち入り禁止だそうです。なので、今回は陣屋址だけで我慢です。

喜連川陣屋について
喜連川陣屋は、館造りで二廓から構成されていた。主廓は、倉ケ崎城山嶺に位置し、城山との間には、堀が一本あるだけで防備は薄い。 ここに臨戦時には、城山を頼る意図が見える。明和四年の記録からも城山は維持・管理されていた事がわかる。

城山側を除く他の三面には土塁と堀が巡っていて特に北側には大池があった。

喜連川陣屋の御殿は『足利公館平面図』でより詳細を知ることができるが、明治9年に放火によって焼失したと伝えられ、現在まで土塁や堀を含くめ現地に残る遺構はない。

現在は、さくら市市役所支所や図書館の敷地となっている。


喜連川陣屋写真館
大手門は、明治9年に焼失し、平成3年に新たに建てられたものです。




武家屋敷と喜連川神社



★喜連川陣屋はココだ!★
栃木県さくら市喜連川4397-1





★墓所★
家康は源氏を称して将軍となり、徳川将軍は代々「源氏の長者」の称を朝廷から得ていた。そのため家康は源氏の名流を特に保護し、この喜連川家を筆頭に、吉良家、今川家、畠山家などの足利一門大名の末裔や、果ては新田家の末裔までも探しだし、いわゆる「高家」として遇した。

中でもこの喜連川足利家を足利家の嫡流として、5千石を与え、万石未満ながら大名待遇とされた喜連川家の累代の墓所が龍光寺にあります。




古のロマンを感じた度 喜連川を盛り立てようとしてる街の姿勢に感動 70点



訪問日 2013.02.22


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