2013年3月7日木曜日

逆井城



逆井城2回目の訪問です!


逆井城について
逆井城はもともと逆井氏が治めていたといわれています。逆井常繁公の代、1536年(天文5年)3月3日、小田原を本 拠地とする後北条氏の軍勢に攻められ、以後、1590年(天正18年)に後北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされるまで、同氏の北関東進出の拠点となっていた、といわ れています。

この地は常陸佐竹氏・結城氏・多賀谷氏との領国の境目にあたり、すぐ北側にある自然の要害である「飯沼」に囲まれ堅牢を誇っていたと思われます。なお、1577年(天正5年)には、大鋸引を藤沢(神奈川県)より呼び寄せた、との記録もあります。
※坂東市観光協会参照

逆井城写真館







『二層櫓』
二層櫓は、戦国時代末期の城郭建築の歴史考証を基に、外観二層の容姿をもつ戦国期櫓を復元したものです。近世の隅(すみ)櫓(やぐら)とは違い、時代を感じさせる櫓で、6m四方の平面をもち、入母屋の望楼に下見板張り等の外壁によって当時の景観を再現しています。


『井楼矢倉』
矢倉は逆井城址に2塔ありますが、現在は立ち入り禁止になっています。震災の影響か?
井楼矢倉は米を蒸す蒸篭と同じように、井形に組んだ方形材(ほうけいざい)を次々と組み上げた矢倉です。

このような矢倉が作られるのは次のような軍事目的のためです。
①物見櫓として敵の動勢を監視する。
②味方の軍の動勢を把握する。

このような矢倉の役割が発展・大規模化したものが近世城郭の天守閣で、城主の威厳を誇示した政治的役割が加味されています。この井楼矢倉は戦国時代末期のものを、資料を基に復元したものです。


『関宿城門』
関宿城の城門と言い伝えられるこの門は、本柱が門の中心線上から前方にずれている薬医門と呼ばれるもの。


『主殿と観音堂』
左)主殿、茨城県牛込町で発掘調査された大台城遺跡発掘の折出土した主殿遺構を参考に、復元されたもの。大台城は、1595年頃に築城されたもので、逆井城と同時代に存在していたものです。

右)観音堂、茨城県岩井市にある大安寺にあったものを町が譲り受け、移築・復元したものです。


『鐘堀池』
1536年(天文5年)3月3日、逆井城城主・逆井常繁は、北条方大道寺駿河守に攻められて戦死する。この時城主の奥方(もしくは、娘)は先祖代々伝わる釣鐘をかぶってこの池に飛び込み自殺したと伝えられている。この釣鐘を探そうと何人もの人が池を掘ったため、『釣堀池』や『釣鐘池』とよばれるようになった。


『櫓門と橋』



『比高二重土塁』
逆井城址東側に位置する土塁。堀の外と内側に土塁があり、高さが外側の土塁に比べて内側が高くなっています。この様な土塁の構築を比高二重土塁といい、戦国末期にこの城を構えた後北条の築城法の特色の一つです。


『飯沼』
戦国時代末期、前方に広がる水田は、2市4町にまたがる東西約1km、南北約20kmの沼であった。



★城跡は、ココだ!★
茨城県坂東市逆井1261


★おまけ★
城址公園内にあるお蕎麦屋智姫』で昼食にしました。今回は、智姫そばをいただきましたよ!
ちょっと、汁が自分には塩っぱい感じがしましたが、蕎麦自体はとても美味しかったです。



古のロマンを感じた度 逆井城素晴らしい! 100点


訪問日 2013.02.16

2013年3月6日水曜日

八王子砦(金山城出城)


金山城の一部である八王子砦、金山城(本城)攻めだけで、見所満載ですが、多少余力があったので城攻め敢行しました。案の定バテバテ、疲れを翌日まで引きずりました。
 
本城とは、橋で結ばれていますが、こちらも何処からでも城攻め可能なので色々な角度から攻めて見ると面白いかもしれません。

八王子砦について
本城南方の八王子山に築かれた砦で本城防衛の拠点である。
中八王子櫓台(TOP画像)から大八王子櫓台に空堀と石垣を巡らし、大手口城門を経て西城に至り、比丘尼城門を経て本本城に達している。所謂、朝鮮式山城の典型を残している。

八王子砦写真館 




『榊ノ井戸』
大八王子櫓台北面の山腹にある。金山石で丸く囲い、水汲場は一段と低くなっている。 小屋で覆われていたので周囲は平らな四角形である。石垣の上に大きな榊の木があるのでこの名が付けられた。

『桜ノ井戸』
古来、金山の城には七つの井戸があると言われています。その中の一つの井戸で、中八王子櫓台の西面山腹にあり、形式は他の井戸と同じく金山石で丸く囲われた湧水である。大手門番士と中八王子櫓台番士とが便利に使用できるように、その中間の距離にある。

この井戸の南側山腹より大手門にかけて石塁が残存している。





訪問日 2013.02.28




2013年3月2日土曜日

西城・見附出丸(金山城出城)


金山城の出城の一つである西城です。駐車場から城攻めを開始すると、ここを城攻めすることになります。出城なので、金山城にまとめようかと思いましたが、金山城・本城が見所満載なので、別々にしました。

西城について
西城には、金山城主由良氏の一族である矢田堀領主・泉伊予守が居城していた。そのため、泉氏は西城殿とも呼ばれていたそうである。 
西城からは、新田郡方面が見渡せるので、天正十二年(1584)の金山城攻防戦では、馬を引き出して米で水洗いの様をし、西南方面に塀を懸け囲らせて壁塗りをして、水が豊富にあるが如く見せた場所だという。



『見附出丸・南土塁』
金山城の西側を守る最前線であると考えられる場所。 
 







訪問日2013.02.28