2013年6月29日土曜日

金原城


場所 群馬県吾妻郡東吾妻町

別名 白狐城

渋川から前橋へ向かって県道35号線を車で走行していると、右手に城跡らしきものを目にした私だが、先を急ぐこともあり、まさかなぁ?の気持ちも強く、車を5分程走らせてしまうが、やはり気になりUターン・・・

ビンゴ!金原城址(白狐城)入口とあるではないか!
早速の城攻め開始である。(先を急ぐのに・・・)

案内板がある訳ではないので、この城については詳しくは分らないが、応永年間(1394年~1427年)に金原左衛門尉が居城としていたといわれている。

写真館




写真(右) 城跡から対面に見える岩の突き出た面白い山。実は、ここに岩井堂砦があるという。
キツイだろうが、いずれチャレンジしたと思う。

MAP



訪問日 2013.06.05


2013年6月28日金曜日

西居谷城



場所 群馬県渋川市白井

白井城の案内板と地図にも記されていた西居谷城ですが、遺構は何も残っていないようです。
白井城の案内板によると、堀が確認さているとあるのですが・・・

自分が探索した限りでは確認できませんでした。
宅地化、国道の整備の際に完全に失われてしまったのだろうと思います。

城の規模は白井城の出城で、居館程度らしいですがどうなのでしょうね?

写真館


 訪問日 201306.07

2013年6月27日木曜日

白井城



場所 群馬県渋川市白井

15世紀中頃に関東管領上杉憲実の新任厚かった長尾景仲の築城と言われる。
景仲の子、景信が死去すると、管領家家宰職の相続をめぐり家督争いが勃発長すると(尾景春の乱白井城は山内上杉の重要拠点となった。

その後、沼田と同じく、越後上杉・甲斐武田・相模北条・滝川(織田重臣)の争いに巻き込まれていき、最終的には、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めの際に前田利家によって攻められ開城した。

徳川家康の関東移封に従い、本多広孝・康重が城主となり、この時代に現在の白井城の形に整備したと考えられている。以後、戸田康長、井伊直孝、西尾忠永、本多紀貞と城主を代えるが寛永元年(1624年)紀貞の病死により廃城となった。

渋川伊香保ICを降りて17号線を北上すると、案内板がありますので言うとおりに進むと城跡は現れます。行ってビックリするほど程、よく遺構が残されています。是非、行って頂きたい城址であります。

写真館 


『枡形門』  
太田道灌が指導した石垣と言われている。(伝説)


『本丸跡』  
本丸は、周囲を土塁に囲まれている(下画)土塁上から本丸を望む






『笹郭』
本丸の南側に築かれた郭で、更に奥に南郭、新郭が築かれているが現在は宅地化している。


『三日月堀』
本丸と二の丸を隔てている堀。


『帯郭』
本丸より東側に設けられている。


『二の丸』
現在は畑となっている。



『三の丸』
二の丸と同じく畑



『北郭と櫓台』
北郭にあったとされる櫓台は、現在、城山不動尊が築かれている。



『金比羅郭』
地図上では、周囲が金比羅廓跡と思われる



『南郭だろうと思われる場所にある案内板』



城址は、ざっくりここら辺!




訪問日 2013.06.07

2013年6月26日水曜日

沼田城


場所 群馬県沼田市西倉内町

別名 倉内城

沼田城についてざっくりと!

築城者は、鎌倉時代からこの地の有力者であった沼田氏12代目・沼田万鬼斎顕泰で、天文元年(1532年)と言われている。当時は、倉内城と呼ばれていた。

この城は、 関東へ至る要衝の地にあることから、越後上杉、甲斐武田、相模北条の三つ巴の争奪戦が繰り返されることになる。

天正8年(1580年)には、武田勝頼の命により沼田に進出した真田昌幸が沼田城を攻略し、翌9年には沼田城の奪還に来攻した平八郎景義を謀殺して沼田氏を滅亡させます。以後、真田昌幸が入城し規模を広げ、天正18年(1590年)には。昌幸の長男信幸が沼田領二万七千石の初代城主となり、慶長2年には五層の天守を建造しました。

その後、5代 信利が江戸幕府に領地を没収され、翌年1月に沼田城は幕府の命により完全に破却、その後天守が再建されることは無かった。

詳細は沼田市のHPでどうぞ!パンフレットなども、DLできます。沼田市のHPだよ♪

写真館 

本丸跡
現在は花壇となっているが、ここに五層の天守が建てられていた。




二の丸跡 







『三の丸跡(江戸時代)』現在は、駐車場となっています。東西約380m、最大幅120mあったとされ、本丸・二の丸の南側に位置し、当時『侍屋敷』があったそうです。



地図




訪問日 2013.06.06