2013年7月1日月曜日

皆川城



場所 栃木県栃木市皆川城内町

別名 法螺貝城

信長の野望にも登場し、下野宇都宮家でプレイするときは頼りになる皆川広照(皆川五代当主)のお城です。(織田信長に馬を献上し謝礼状を貰っている。)

築城者は諸説あるようで、城址案内板(居館跡)には長沼秀宗とあり、同じ城址本丸跡の案内板では15世紀中頃(1450年前後)とある。さらに、栃木観光協会のHPでは応永元年(1394年)に皆川秀光とあるが、寛喜年間(1229~31)に皆川宗員とするところもある。

天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐に伴い、北条方であった皆川城は豊臣方の上杉景勝・浅野長政軍に包囲され皆川広照が降伏開城した。その後、皆川氏の存続は認められたが、その際に新たに栃木城を築き移り、皆川城は廃城となった。

とても良く整備されていて、遺構がよく残っている。表は、非常によく整備されているが、裏は程よく荒れているので面白い!とてもオススメの城です。


写真館

復元模型
縄張り図

居館跡
東西約140m×南北約100mの方形状をして三方を土塁にがあったが、現在は公民館の西側に残るのみとなっている。現在の公民館が居館跡である。




竪堀
中心から外に向かって掘られた空堀で、敵が攻め込んで来た時に左右の連絡を断つことを目的に造られている。



西の虎口
虎口とは、城の出入り口や、各廓の出入口を指すものです。東にも虎口跡もあるようですが、立ち入り禁止区間にあり確認できませんでした。

 
本丸跡



西の丸



井戸跡


白山台・東宮神社
皆川城東方120mにある方形台状の曲輪で、第一次皆川系の館であり、第二次皆川氏においては皆川城の砦一部となっていた。現在は、南側部が残っているのみである。




金剛寺
城の西方にある寺で、皆川家歴代当主の墓がある。更に、皆川広照が寄進したとされる南蛮鎧兜や、広照長子・隆庸が先祖の菩提のために寄進した薬師如来像が安置されている。


皆川広照の墓

場所(ざっくり!)



訪問日 2013.07.01

0 件のコメント:

コメントを投稿