2013年7月14日日曜日

箕輪城



場所 群馬県高崎市箕輪町西明屋

☆祝!!箕輪城箕輪城の城門復元☆
記事は、こちらでどうぞ→ 『歴史人『高崎新聞』

西暦1500年頃に現在の高崎市浜川地域を拠点にしていた長野氏の築城した城です。長野氏が武田氏によって攻め滅ぼされると、武田氏・織田氏・北条氏・徳川氏と主を変えていきます。最後の城主で、徳川氏の重臣・井伊直政の時、慶長3年(1598)に高崎に移城したことによって、廃城となりました、。廃城に伴う移築で建物は全く残っていませんが、城跡の至るところに、新・旧多数の案内板によって城の特徴など親切に説明されていますので、城の機構が解らない方でも充分楽しめると思います。

長野業正(武田氏の侵攻を6度退けています。)・内藤昌豊(武田四天王)・滝川一益(織田四天王)・北条氏邦(北条一門)・井伊直政(徳川四天王、後に彦根に移り、ひこにゃんと化す!)等、箕輪城城主を務めた主だった武将達は凄いメンツです。

城の築城年・築城者については、長野氏に関する資料が少ないために詳しくは分かっていません。系図などから、長野業尚(尚業)が築城者ではないかと考えられています。現在残る箕輪城の堀や石垣などは井伊氏の時代に使われていたもので、長野氏時代のものとはかなり異なるようです。

☆箕輪城攻めコース(本丸へ至るコース)は、6つあります。
四季により風景が変わるらしいので、攻め口を変えて何度か攻めて見たら楽しめるのではないでしょうか?

搦手口
駐車場あり。
6つの攻め口の中で、唯一案内プリントが置いてあります。プリントの案内図を見ながら城跡を進むと良いと思いますし、搦手口が推奨ルートになっていると思われます。本丸への最短ルートにもなってます。ここから、車で二の丸に行くことも可能!





椿名口
駐車場なし。バス停城山入口側付近
少し歩き木俣→郭馬出or二の丸へ至るルートです。
今は住宅地となっているが、近くに椿名沼があった。





観音様口
駐車場あり。
水の手曲輪から観音様→木俣→二の丸へ至るルートです。






大手尾根口
駐車場なし。
少し歩き、木俣→郭馬出→二の丸へ至るルートです。

井伊氏時代の大手口にあたる。 門前には『丸戸帳』という廓馬出が構えられていた。大手口は、間口約11m、奥行約4.4mの櫓門で、後に高崎城の槻木門となった。

 

大手虎韜門口
駐車場あり、トイレあり
加治曲輪から三の丸に至るコースです。

虎韜(ことう)とは、中国の代表的な兵法書六韜三略の虎の巻という意味です。門名は、井伊直政が名付けたといいます。



霊置山口
駐車場あり、水飲み場あり
畑脇を通り丸馬出から中央コースor三の丸or稲荷曲輪にるルートです。

玉木山と言う曲輪がすぐ右手にあるが、木々に覆われて行くことが出来ない。



写真館



『搦手』
城の大手口に対して裏口に当たる場所です。長野氏時代から北条氏時代迄は、こちら側が大手口になっていたようです。


『新曲輪』



『丸馬出』
城の東北部(新曲輪)にある堀で、この方面の敵に対して出撃するための馬出で堀と土手が半円形で南北両側に出入口を開く。丸馬出が残っている例は少ない。



『稲荷曲輪』
ほぼ三角形、東側の堀は水堀、西北端の稲荷山に櫓台、北に虎口を開き、南は帯曲輪に連なる。


『御前曲輪北堀』
堀は五つに分かれており、稲荷曲輪・玉木山・通仲曲輪の三つの郭が口ばし状にあつまり、三つの郭を進むと新曲輪・丸馬出へと行ける。


『御前曲輪西石垣とその付近』
通仲曲輪と御前曲輪の間の堀に掛けられた橋の橋脚部の土止めの為に自然石をそのまま積み上げた石垣。


『本丸堀の橋台とその付近』
本丸から蔵屋敷に出る橋の脚を立てた台で、この場所で堀は狭くなっている。



『三の丸』


左下画 この奥に蔵屋敷があったと思われる。


左下画 三の丸門跡と石垣                    
右下画 三の丸石垣で、城内で一番高い石垣で4mあります。戦国時代の城は1~2mの石垣が多いそうですので、石垣の高さからして箕輪城のいかに重要な城であったかがわかります。
   


『鍛治曲輪』
鍛冶場のあった曲輪で、大規模な城跡に見られた。ここで武具の制作、修理がおこなわれた。

ここを下ると大手虎韜門口へつながる。



『白川口埋門』
虎韜門から白川川原へ出る秘密の通路で、西部城郭外へ道は唯一ここだけ。虎口の両側に石垣を積み石や木を渡して土手を作りトンネル状に作った門を埋門(さいもん)といい、県内で埋門跡があるのはここだけです。


『二の丸』
現在は公園になっていて、ここまで車で来ることが可能になっており、お年寄りの憩いの場となっています。二の丸は縦・横各80m程の廓で出撃の拠点となります。












『大堀切と土橋』



『廓馬出(かくうまだし)』
約30m×50mの廓で、大型の馬出しを廓馬出といいます。西虎口で城門跡が確認されており、その門は二階建ての屋根付き城門であったと考えられていて、関東の城郭として規模が確認されている中では最大級です。


『木俣』
通路が二股、三股のように五つに別れていいます。この敷地に重臣達の屋敷が建てられていたそうです。











『水の手曲輪』 
貴重な水を確保するための曲輪で、今も水が湧いている様子で、現在、養蛍園として活用されたます。また、長野業正によって移転を命じられましたが、井伊直政によって元の場所に戻ってもよいと許された法峰寺もあり、その隣に観音堂もあります。


 
『本丸門馬出とその付近』
 



『本丸』
御前曲輪と共に城の中心部となっています。南北約100m、東西約70mで東側に高い土手を築き城内が敵に見えない作りになってます。二の丸が攻撃の要に対して、本丸は持久防衛のための廓となっています。虎口は3ヶ所あります。

右下画 本丸南の虎口で、門の間口2.6m、奥行2.7m程と推測されています。

左下画 本丸北の虎口、間口5.4m、奥行3.3mで本丸にある3つ門の中で最大の規模でした。
右下画 本丸西の虎口、間口3.1m、奥行1.7mで4個の礎石全て残っていることが確認されている。

『御前曲輪』
本質的には本丸の一部でり詰所にあたる。天守閣はあらず、西南の隅に物見・戦闘指揮の櫓があり、その下は石垣で固められている。武田信玄に攻められ長野業盛(業正三男)以下は、この地にあった持仏堂にて自刃したと伝わる。この時業盛は、17才もしくは、14才であったという。


右左下画 昭和2年に発見された井戸で、深さは20mあり、井戸底から長野氏の累代の墓石が多く掘り出された。


左下画 『夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡』と石碑に、私の大好きな句が彫られていました。作者は、箕郷出身の安田一雨です。
右下画 御前曲輪西虎口で、間口・奥行共に3.1mの門跡(四脚門)が確認されています。この堀の奥が通仲曲輪となってます。


『椿山の砦』
椿口付近にある砦(出城)になると思います。現在は住宅・田んぼと化してますが、非常に入り組んでおり、砦があったことを偲ばせております。焼けてしまったような香取神社がありました。



MAP



訪問日 2013.07.12


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