2013年2月16日土曜日

芦野城



芦野氏の最後のお城に行きます!城址前にある歴史探訪館は、建築設計者が隈研吾さんであるので、そちらも楽しみです。

芦野城について 
別名、桜ヶ城・御殿山という。
八溝山地の北部、八溝山塊の最も西の部分の 標高300m前方を示す丘陵上にある。その丘陵の広い突端部をりようし、人工的に大規模に手を加えた平山城である。

築城者の芦野氏の祖先は、約7、800年前の鎌倉時代には、小さな武士集団の頭として、芦野の土地と人々を支配し、奈良川右岸の地に居館を構え(芦野居館址)、次いで室町時代の前期(1394年~1428年頃)、その南の館山城へ移ったと伝えられている。 

築城者及び築城の年代の確かな事は不明であるが、次の二説ある。
一、室町時代の後期(戦国時代)にあたる1532年~1555年に芦野資典が太田道灌の兵法を学んで築いたもの。
二、1590年(天正18年)戦国時代に那須七騎の一人として活躍した芦野盛泰が豊臣秀吉より加増されて築いたもの。

構造や年代的なことから、一の説がより正しいと考えられている。

二の丸は、後に芦野陣屋となる。


芦野城写真館





二の丸(後の陣屋址)






本丸付近




芦名城址登り口前にある歴史探訪館、建物を見るだけでうっとりしてしまいます。
新しい歌舞伎座を設計された隈研吾氏の設計です。

★城跡はココだ!★
栃木県那須郡那須町芦野




★おまけ★
芦野城より近隣に芦野氏新墳墓があります。19代・資俊から27代・民部資原まで9代の墓域となっています。(資俊以前の墓域は旧墳墓という)資俊が1692年(元禄5年)56歳で芦野で没して建中寺で葬られてより、資原死去
57年(安政4年)4月までの165年間にわたり、当主9基の墓碑と、婦人・子女等の墓碑22基の碑塔が建てられている。
資俊は、芦名で没し建中寺に葬られましたが、20代資親以後の領主は全て江戸駒込惣禅寺に葬られています。

自分は険しい道を選んでしまったようですが、車でも楽に行けますよ。




古のロマンを感じた度 春にもう一度、桜を見に・・・ 80点


訪問日 2013.02.15

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